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渋谷区の坂(3) 〜 渋谷方面 【11坂】

ここでは、坂道の説明に「渋谷区ホームページ」の「タウンガイド 通りの名前」からの引用を加えてあります。

各坂道の位置はこちら → 地図

道玄坂
(どうげんざか)
【坂上にある標識(渋谷区教育委員会設置)の説明】
江戸時代以来、和田義盛の後裔大和田太郎道玄が、この坂に出没して山賊夜盗の如く振舞ったとの伝説がありました。しかし本来の道玄坂の語源は、道玄庵という庵があったことに由来すると考えられます。

【坂下にある標識(渋谷区教育委員会設置)の説明】
江戸時代の道玄坂は、大山街道の一部として多くの人が往来していました。当時の道玄坂は、現在の道玄坂から世田谷街道に入って松見坂までも広く呼んだものでした。江戸中期頃より道玄坂とは専らこの坂を指すようになったのです。


坂上と坂下にはそれぞれ同じような標識があるのですが、上記のとおり、標識の説明が異なっています。
 坂上にある標識のそばには、「道玄坂の碑」として、写真下のように、樋口清之「渋谷道玄坂」(中央の碑)、「道玄坂供養費」(右側の碑)、与謝野晶子の歌碑(左側の碑)があります。

オルガン坂 【標識なし】

【渋谷区ホームページ・タウンガイドからの引用】
井の頭通り東急ハンズ前の交差点からパルコ前交差点へ上がる坂道。通りの周辺に音楽関係の店が多かったところから命名されたようです。東急ハンズ前の階段がオルガンの鍵盤に見えるから、という説もあります。

写真正面に見える建物は、東急ハンズ渋谷店です。
スペイン坂(渋谷区) スペイン坂 【渋谷区ホームページ・タウンガイドからの引用】
パルコパート1裏から井の頭通りへと下る坂道。喫茶「阿羅比花(あらびか)」の店主、内田裕夫氏は、写真で見たスペインの風景に心ひかれ、店の内装をスペイン風に統一していました。昭和50年にパルコからこの坂の命名を依頼されたときには、迷わずこの名をつけたそうです。命名後、近所の人たちも協力して、建物を南欧風にしました。

これも有名なスペイン坂。写真は坂上部の階段付近。途中に小さな石製の標識(写真右)が置かれています。また、坂下の入り口に「スペイン通り」と刻まれた黒い石の標識が置かれていました。
間坂
(まさか)
【渋谷区ホームページ・タウンガイドからの引用】
井の頭通りから公園通りにLoft沿いに進む道。平成元年、Loftが一般公募により命名しました。「渋谷駅と公園通りとの間」「ビルとビルの間」「『まさか』という語呂のよさ」「『間』という感じが人と人との関わり合いをイメージする」との理由です。

井の頭通りからLoftの方向に登る坂道です。坂上のLoft前に石柱の標識(写真右)があります。柱の上の部分にも「間坂」と書かれています(写真下。「坂」の字は逆転しているようだ)。側面には「間坂 昭和六十三年八月吉日建之」とありますが、設置者は不明です。




宮益坂
(みやますざか)
【坂下の標識(渋谷区教育委員会設置)の説明】
ふじみ坂、または渋谷新町とも呼ばれていた、この坂に沿う家並を途中の御岳権現にあやかって正徳三年(一七一三)から渋谷宮益町と称し町奉行管下になりました。

【坂下の標識(渋谷区教育委員会設置)の説明

かつて、
富士見坂とも呼ばれたこの坂一帯は、古くから矢倉沢往還(大山道中)として江戸の町と郊外農村との接続点であったので、ささやかな商人町を形成していました。ここが渋谷宮益町と称されていたので、宮益坂と呼ばれるようになりました。

【渋谷区ホームページ・タウンガイドからの引用】
渋谷駅から青山通り(国道246号)へ上がる坂道。江戸時代、坂の途中にある千代田稲荷(現在の御嶽神社)にあやかって、町名を渋谷宮益町に変えたためこの名称がついたといわれます。これ以前は、富士見坂と呼ばれていました。

→ 宮益坂のページへ
金王坂
(こんのうざか)
【標識の説明】
明治大正昭和と波乱万丈の過程を経て市区改正町名変更に伴ない先輩諸氏の築かれた幾多の功績をたたえ由緒ある金王の地名を保存しここに金王坂と命名する。


*この標識(写真下)は、渋谷駅東口町会等の4町会が立てたもの。「昭和五十四年五月吉日」建立とあります。
八幡坂
(はちまんざか)
【標識なし】

写真右は坂の途中を少し入ったところにある金王八幡宮。坂名はこれに由来します。




→ 八幡坂のページへ

間坂
(あいだざか)
【標識なし】

桜丘町24番と25番とのあいだを南平台町に向かって登る坂道です。
南平坂
(なんぺいざか)
【標識なし】
かめやま坂 【標識なし】

南平坂とこの坂は、写真の交差点を坂下にしてはさんで対面する形になっています。

天狗坂
(てんぐざか)
【標識(渋谷区教育委員会設置)の説明】
岩谷松平(号を天狗、嘉永二年〜大正十年1849〜1920)は鹿児島川内に生まれました。明治十年に上京し、間もなく銀座に紙巻煙草岩谷天狗堂を設立し、その製品に金煙草、銀煙草などと名前をつけ、「国益の親玉」「驚く勿れ煙草税金三百万円」などの奇抜な宣伝文句で明治の一世を風靡しました。煙草の製造に家内労働を導入するなど当時としては画期的、独創的な工夫をしました。明治三八年(1905)煙草専売が実施されるとこの付近の約四万三千平方メートル(一万三千坪)の土地に日本人の肉食による体質の向上を考えて養豚場等をなど国家的事業に貢献しました。晩年岩谷天狗がこの地に住んだことから、この坂の名が生まれました。


1999年?ごろには白いコンクリートが敷かれていませんでした。坂上部の中央に設置された石杭には「てんぐ坂車止」と彫られています(写真右)。「止」の字の半分がコンクリートの下に埋もれていますが。