八幡坂(はちまんざか)

所在地: 渋谷区渋谷三丁目と東一丁目の境界 → 地図 

@ 坂下の明治通り並木橋交差点から

A 同じく坂下から

B 坂の中間部から見下ろす。坂下からこの辺りまでは傾斜が強い

C Bと同じ地点から見下ろす


D BCから更に登った坂上部から見下ろす。この辺りは傾斜が緩くなっている。

E 坂上の六本木通り沿い渋谷二丁目交差点から。


F 坂名の由来となった金王八幡宮正面 G 金王八幡宮社殿


【この坂について】
 明治通り並木橋交差点から、渋谷区渋谷3丁目と東1丁目の境界を北北東に向かって登り、六本木通り渋谷2丁目交差点にいたる坂道です。坂の下部は傾斜が急で、坂上部は傾斜が緩やかになります。この通りは八幡通りと呼ばれています。

 坂の中間部から北西に曲がる道を行くと、坂名(及び通りの名前)の由来となった金王八幡宮があります(写真FG)。

 東京都渋谷区立白根記念郷土記念館『渋谷の坂』(昭和60年)には、この坂について、
「金王八幡神社の境内を出て大鳥居をくづると、T字形の道路に突きあたる。ここを左右に横切る道路が通称八幡通りといわれる道路で、このあたりかた渋谷川に向かって下り坂となっている。これが八幡坂で、その名称は八幡神社に由来する。
 この八幡通は、中世の鎌倉道の名残りであるが、往時の道幅は、現在の半分以下であったと考えられる。いまでも、渋谷川に向かって坂を下ると。その途中から右手に入る狭い道があって、かつての鎌倉道を偲ぶことができる。この鎌倉道は、並木橋で渋谷川を渡ると、上り坂となり、西渋谷台地を西へ横断し、猿楽塚とその南墳の間を通って目黒川に下り、末は鎌倉に達していた。
 また八幡通りを、これとは反対方向に進むと、現在の青山学院の西わきを通って東渋谷台地の上を原宿に至り、千駄ヶ谷で奥州道に接していた。つまり、この道は中世の軍用道路であった。もっとも、平時にあっては、この道路は文化の交流にとって大きな役割りを果たしていた。しかし、この道路も、いまを去る450年ほどのむかし。この地にあったという渋谷城を初め、近辺一帯が戦禍によって壊滅するという悲劇発生の原因ともなった。」

とあります


 坂道の標識は設置されていません。

 
【写真撮影日】 2003年3月30日(@〜G)

【この坂の本サイト掲載日】 2003年4月4日
【このページの作成日】    2004年10月24日