HOME千代田区の坂(6)神田駿河台方面(その1)

千代田区の坂(6) 〜 神田駿河台方面(その1) 【8坂】

 駿河台と呼ばれるだけに台地になっており、ここに上る坂道が多くあります。「駿河台」という名称は、徳川家康に仕えた駿河在住の家臣団が、家康の死 に伴い江戸に戻りこの土地を与えられたことによると言われています。現在は大学、予備校、楽器店等でにぎわう町です。このページ(その1)は明大通りの西側に位置する坂道を集めてます。明大通りの東側に位置する坂道を集めた「その2」こちら
 神田駿河台地域にある一部の坂には、昭和50年1月に駿河台西町会の人々によって、坂名を刻んだ小ぶりの石の標識を路面の片隅に設置されています。このページ地域では、皀角坂、女坂、男坂、錦華坂、文坂、吉郎坂でこの種の標識があります。

各坂道の位置はこちら → 地図

皀角坂
(さいかちざか)
【標識(千代田区教育委員会設置)の説明】
この坂を皀角坂といいます。「新撰東京名所図会」には「駿河臺鈴木町の西端より土堤に沿い手、三崎町の方に下る坂なり」とかかれています。名称については、「新編江戸志」に、「むかし皀角樹多くある故に、坂の名とす。今は只一本ならではなし」とかかれています。「サイカチ」とは野山にはえる落葉高木で、枝にとげが多く、葉は羽状形で、花も実も豆に似ています。

坂上の石の標識

 皀角坂のページ
小栗坂
(おぐりざか)
【標識(千代田区設置)の説明】
 この坂を小栗坂といいます。「東京名所図会」には「三崎町一丁目と猿楽町三丁目の間より水道橋の方へ出づる小坂を称す。もとこのところに小栗某の邸ありしに因る」とかかれています。また「江戸惣鹿子名所大全」には「小栗坂、鷹匠町にあり、水道橋へ上る坂なり、ゆえしらず」とかかれています。この坂の周辺には小栗という武家屋敷は見あたりません。

 小栗坂のページ
女坂
(おんなざか)
【標識(千代田区設置)の説明】
 この坂を女坂といいます。駿河台一丁目七番地の端から猿楽町に下る坂「男坂」に対して名付けられたものです。男坂が一直線の急坂であるのにくらべ、中途で中やすみするようになっているので、「女坂」と呼ばれています。この坂のできたのは、大正一三年(一九二四)八月政府による区画整理委員会の議決により作られたものです。


坂上の石の標識

 女坂のページ

男坂
(おとこざか)
【標識(千代田区教育委員会設置)の説明】
 この坂を男坂といいます。駿河台二丁目一一番地の端から猿楽町へ下る石段の坂「女坂」に対して名づけられたものです。この坂のできたのも比較的新しく、大正一三年(一九二四)八月政府による区画整理委員会の議決により作られたものです。男坂は同一場所、あるいは並行してある坂の急な坂を、女坂はゆるやかな坂というように区別されて名付けられています。

坂上の石の標識

→ 男坂のページ

錦華坂
(きんかざか)
【標識(千代田区設置)の説明】
 この坂を錦華坂といいます。名称は坂下に錦華小学校があるからです。この坂を勧学坂と呼ぶのは誤りです。この坂は大正一三年(一九二四)八月政府による区画整理委員会の議決により新らしく作られた道路です。「議決要綱の三」には「南甲賀町より袋町三番地を横断して裏猿楽町二番地先錦華小公園東側に通ずる六米街路を新設」とあります。


石標識(錦華坂)坂半ばにある石の標識

→ 錦華坂のページ
富士見坂
(ふじみざか)
【標識(千代田区教育委員会設置)の説明】
 この坂を富士見坂といいます。。『新撰東京名所図会』には「駿河台南甲賀町の内、袋町に通づる筋より南へ、猿楽町一丁目と小川町との間を下る坂、富士見坂と呼ぶ。風景賞すべきの地にはあらざるも、遠く富士を望むを得べし。富士見坂の名もこれに基しか」とかかれています。富士見坂という名の坂は、千代田区だけでも三ヶ所あります。富士見町と九段の間、紀尾井町と永田町二丁目の間にあります。


この坂は、長くはなく且つ緩やかです。坂を下ると神田の書店街に出ます。

→ 富士見坂のページ
文坂
(ふみざか)

明大通りを神田神保町三省堂前の駿河台下交差点から上る坂道です。写真右にある町会設置の石製の標識があります。


→ 文坂のページ
吉郎坂
(きちろうざか)
坂上は山の上ホテル本館、坂の南側は明治大学です。

吉郎坂(石標識)右の写真は坂下の植え込みの中にある小さい石の標識です(うっかり見落としそうです)。表には「吉郎坂」と刻まれています。



→ 吉郎坂のページ