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台東区の坂(2) 〜 谷中方面 【10坂】

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善光寺坂
(ぜんこうじざか)
【標識の説明】
谷中から文京区根津の谷に下りる坂には、この坂と北方の三浦坂・あかぢ坂とがあり、あかぢ坂は明治以後の新坂である。
 善光寺坂は
信濃坂ともいい、その名は坂上の北側にあった善光寺にちなむ。善光寺は慶長六年(一六〇一)信濃善光寺の宿院として建立され門前町もできた。寺は元禄十六年(一七〇三)の大火に類焼して、青山(現港区青山三町目)に移転し、善光寺門前町の名称のみが明治五年まで坂の南側にあった。
 善光寺坂のことは、明和九年(一七七二)刊行の「再校江戸砂子」にも見え、「御府内備考」の文政九年(一八二六)の書上には「幅ニ間(約三・六メートル)、長さ十六間(約ニ九メートル)、高さ一丈五尺(約四・五メートル)ほどとある。
三浦坂
(みうらざか)
【標識の説明】
「御府内備考」は三浦坂について、「三浦志摩守下屋敷の前根津の方へ下る坂なり。一名中坂と称す」と記している。三浦家下屋敷前の坂道だったので、三浦坂と呼ばれたのである。安政三年(一八五六)尾張屋版の切絵図に、「ミウラサカ」・「三浦志摩守」との書き入れがあるのに基づくと、三浦家下屋敷は坂を登る左側にあった。
 三浦氏は美作国(現岡山県北部)真島郡勝山二万三千石の藩主。勝山藩は幕末慶応の頃、藩名を真島藩と改めた。明治五年(一八七二)から昭和四十二年一月まで、三浦坂両側一帯の地を真島町といった。「東京府志料」は「三浦顕次ノ邸近傍ノ土地ヲ合併新ニ町名ヲ加ヘ(中略)真島ハ三浦氏旧藩ノ名ナリ」と記している。坂名とともに、町名の由来にも、三浦家下屋敷は関係があったのである。
 別名の
中坂は、この坂が三崎坂と善光寺坂の中間に位置していたのにちなむという。
あかぢ坂
【標識なし】
真島坂 【標識なし】

標識はないが、三浦坂に関する台東区の標識の説明を踏まえると、この辺りが真島町と呼ばれたことにちなむのでしょう。
三崎坂
(さんさきざか)
【標識の説明】
『御府内備考』に、「三崎坂」の名が記されている。『御府内備考』は江戸の地誌。文政十二年(一八二九)完成である。名称は付近の地名にちなむ。『江戸名所図誌』に「三崎坂 俗に首ふり坂という。三十年ばかり前、首をふる僧此坂にありしゆえ呼びならばせしなり。」と記している。これに基づくと、三崎坂は別名
『首ふり坂』とも呼ばれた。
蛍坂
(ほたるざか)
【標識の説明】
江戸時代、坂下の宗林寺付近は蛍沢と呼ぶ、蛍の名所であった。坂名はそれにちなんだのであろ。『御・・・[字が消えて読めず]「宗林の辺も蛍坂といへり」と記し、七面坂南方の谷へ「下る処を中坂といふ」と記している。中坂・・・[字が消えて読めず]と七面坂の中間の坂なのでそう呼んだ。
三年坂の別名もある。
七面坂
(しちめんざか)
【標識の説明】
宝暦年間の「再校江戸砂子」に「宗林寺前より七面へゆく坂」とある。宗林寺(台東区谷中三−一〇)は坂下にあるもと日蓮宗の寺。七面は坂上の北側にある日蓮宗延命院(荒川区西日暮里三ー一〇)の七面堂を指す。七面堂は甲斐国(山梨県)身延山久遠寺の西方、七面山から勧請した日蓮宗の守護神七面天女を祀る堂である。
 坂は「御府内備考」の文政九年(一八二六)の書上によれば、幅二間(約三・六メートル)ほど、長さ五十間(約九〇メートル)高さニ丈(約六メートル)ほどであった。
 なお宗林寺は「再校江戸砂子」に、蛍の所在地とし、そのホタルは他より大きく、光もよいと記され、のちには、境内にハギが多かったので、萩寺と呼ばれた。


荒川区との境界にあります。写真では右側に上記の説明をした台東区設置の標識、左側(植え込みのところ)に荒川区設置の標識が見えます。
御殿坂
(ごてんざか)
【標識の説明】
文政十二年(一八二九)に成立した「御府内備考」には、「感応寺後と本行寺の間より根津坂本の方へ下る坂なり」とあるが、「根岸」の誤写の可能性がある。明治五年「東京府志科」いは、長さ十五間(約二七・三メートル)幅二間(約三・六メートル)とあるが、現在の坂の長さは五十メートル以上あり、数値が合致しない。以前は、谷中へ上り口に当たる急坂を「御殿坂」と呼んだが、日暮里駅やJRの線路ができた際に消滅したため、その名残である坂の上の部分をこう呼ぶようになったと考えられる。俗に御隠殿(寛永寺輪王寺宮の隠居所)がこの坂にあったからといわれるが、根拠は定かではない。

この坂も荒川区との境界にあり、同様に写真の台東区設置の標識と、荒川区設置の標識(道路の反対側)があります。
坂下はJR日暮里駅北口です。
紅葉坂
(もみじざか)
【標識の説明】
坂下周辺の紅葉が美しかったので「紅葉坂」と命名されたのだろう。別名「
幸庵坂」ともいった。その命名由来は不詳。江戸後期の国学者、山碕美成は『金杉日記』に、「天王寺うら幸庵坂下、又三しま社のほとろ秋色尤もふかし、林間に酒を煖む」と記している。この記事によると、幸庵坂の名は江戸時代すでにあったことが知られる。

日暮里駅南口を出たすぐのところある坂です。
芋坂
(いもさか)
【標識の説明】
 坂を登れば谷中墓地、下ると羽二重団子の店の横から善性寺前へ通じていた。鉄道線路でカットされ、これに架かる橋が「芋坂跨線橋」と名付られて、わずかにその名を残している。
 坂名は伝承によると、この付近で自然薯(山芋)が取れたのに因むという。正岡子規や夏目漱石、田山花袋の作品にもこの芋坂の名が書かれている。
   芋坂も団子も月のゆかりかな   子規


写真左の台東区の標識は谷中墓地近くにありますが、芋坂跨線橋を渡った東側にも荒川区設置の標識があります。坂らしい地形は少し残っているだけです。




芋坂跨線橋