HOME新宿区の坂(4)四谷・信濃町方面

新宿区の坂(4) 〜 四谷・信濃町方面 【12坂】

各坂道の位置はこちら → 地図

女夫坂
(めおとざか)
【標識なし】
円通寺坂
(えんつうじざか)
【標識(新宿区教育委員会設置)の説明】
新宿通りから、四谷二丁目と三丁目の境界を南に円通寺前に下る坂。坂名は、この円通寺に因むものである。

→ 円通寺坂のページ
東福院坂[天王坂]
(とうふくいんざか(てんのうざか))
【標識(新宿区教育委員会設置)の説明】
坂の途中にある阿祥山東福院に因んでこう呼ばれた。別名の天王坂は、明治以前の須賀神社が牛頭天王社と称していたため、この辺りが天王横町と呼ばれていたことによる。

→ 東福院坂[天王坂]のページ
観音坂
(かんのんざか)
【標識(新宿区教育委員会設置)の説明】
西念寺と真成院の間を南に下る坂。坂名は真成院の潮踏観音に因む。別名は
西念寺坂、潮踏坂、潮干坂。潮踏観音は、江戸時代以前に四谷周辺が潮踏の里と呼ばれていたことに因む。潮の干満につれ台石が湿ったり乾いたりするので汐干観音とも呼ばれた。

→ 観音坂のページ
鉄砲坂
(てっぽうざか)
【標識(新宿区教育委員会設置)の説明】
江戸時代このあたりに鉄砲組屋敷があり、鉄砲訓練場や鉄砲鍛冶場などもあったためこう呼ばれるようになった。また、それ以前は、この地に鈴降稲荷という稲荷社があったことから、
稲荷坂とも呼ばれていたという。
戒行寺坂
(かいぎょうじざか)
【標識(新宿区教育委員会設置)の説明】
須賀町戒行寺の南脇を東に下る坂である。坂名はこの戒行寺に因むものである。別名油揚坂ともいわれる。これは、昔この坂の途中に豆腐屋があり、良質の油揚をつくっていたためこう呼ばれたという。

坂上に戒行寺があります。
闇坂
(くらやみざか)
【標識(新宿区教育委員会設置)の説明】
この坂の左右にある松厳寺と永心寺の樹木が繁り、薄暗い坂であったためこう呼ばれたという。また、松厳寺の俗称が茶の木寺であるため、
茶の木坂とも呼ばれた。

→ 闇坂のページ
鮫河橋坂
(さめがはしざか)
【坂下にある新宿区立みなみもと町公園の案内図の説明】
みなみもと町公園一帯は、昔から低い土地で、ヨシなどの繁った池沼があり、周囲の土地からわきだす水をたたえ、東南の方向へ流れて鮫河となり、赤坂の溜池にそそいでいました。
 江戸時代になってからは水田となり、寛永年間に行われた江戸城の外堀工事の際に余った土で埋め立てられて、町になったといわれています。
 鮫河には橋が架かっていて、鮫河橋と呼ばれていました。鮫河橋は「江戸名所図会」にもとりあげられて有名になったので、この付近一帯を鮫河橋と呼んだ時代があり、今でもみなみもと町公園前の坂に「鮫河橋坂」という名前を残しています。

港区との境界にある坂道です。

→ 鮫河橋坂のページ
安鎮坂
(あんちんざか)
【標識(港区設置)の説明】
付近に安鎮(珍)大権現の小社があったので坂の名になった。武士の名からできた付近の地名によって
権田原坂ともいう。

港区との境界にある坂道です。

→ 安鎮坂のページ
出羽坂
(でわざか)
【標識(新宿区教育委員会設置)の説明】
明治維新後、この坂上に旧松江藩主であった松平伯爵の屋敷が移転してきたため、こう呼ばれるようになった。松平邸内には修徳園とよばれる名庭があったが、太平洋戦争後取り壊された。


→ 出羽坂のページ
新助坂
(しんすけざか)
【標識(新宿区教育委員会設置)の説明】
信濃町と南元町五・六番地の間を南へ下る急な坂である。昔このあたりに新助という人が住んでいたことから新助坂と称した。新撰東京名所図会に「新助坂は、四谷信濃町に上がるなり、一名を
スベリ坂ともいいう。坂の下には甲武鉄道トンネル門あり」と記している。

坂下は中央線の線路の下です。
千日坂
[新千日坂]

(せんにちざか(しんせんにちざか))
【標識(新宿区教育委員会設置)の説明】
この坂下の低地は、一行院千日寺に由来し千日谷と呼ばれていた。坂名はそれに因むものである。なお、かつての千日坂は明治三十九年(1906)の新道造成のため消滅し、現在の千日坂はそれと前後して作られた、いわば新千日坂である。