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港区の坂(1) 〜 赤坂方面(その1) 【12坂】

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紀伊国坂
(きのくにざか)
【標識(港区設置)の説明】
坂の西側に江戸時代を通じて紀州(和歌山県)徳川家の広大な屋敷があったことから呼ばれた。赤坂の起源とする説がある。

写真でこの坂の左側は赤坂御用地になります。これが紀州徳川家上屋敷の跡地です。

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鮫河橋坂
(さめがはしざか)
【坂下にある新宿区立みなみもと町公園の案内図の説明】
みなみもと町公園一帯は、昔から低い土地で、ヨシなどの繁った池沼があり、周囲の土地からわきだす水をたたえ、東南の方向へ流れて鮫河となり、赤坂の溜池にそそいでいました。
 江戸時代になってからは水田となり、寛永年間に行われた江戸城の外堀工事の際に余った土で埋め立てられて、町になったといわれています。
 鮫河には橋が架かっていて、鮫河橋と呼ばれていました。鮫河橋は「江戸名所図会」にもとりあげられて有名になったので、この付近一帯を鮫河橋と呼んだ時代があり、今でもみなみもと町公園前の坂に「鮫河橋坂」という名前を残しています。

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安鎮坂
(あんちんざか)
【標識(港区設置)の説明】
付近に安鎮(珍)大権現の小社があったので坂の名になった。武士の名からできた付近の地名によって
権田原坂ともいう。

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九郎九坂
(くろぐさか)
【標識(港区設置)の説明】
江戸時代の一ツ木町名主秋元八郎左衛門の先祖九郎九が住んでいて坂名になった。鉄砲練習場があって、
鉄砲坂ともいう。

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坂上から。左は豊川稲荷。
弾正坂
(だんじょうざか)
【標識(港区設置)の説明】
西側に吉井藩松平氏の屋敷があり、代々弾正大弼(だいひつ)に任ぜられることが多かったため名づけられた。


この坂は途中で国道246号線と斜めに交差します。写真において坂の右側は赤坂御所。

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牛鳴坂
(うしなきざか)
【標識(港区設置)の説明】
赤坂から青山に抜ける厚木道で、路面が悪く車を引く牛が苦しんだため名づけられた。
さいかち坂ともいう。

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丹後坂
(たんござか)
【標識(港区設置)の説明】
元禄(1688〜)初年に開かれたと推定される坂。その当時、東北側に米倉丹後守(西尾丹後守ともいう)の邸があった。

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円通寺坂
(えんつうじざか)
【標識(港区設置)の説明】
元禄8年(1695)に付近から坂上南側に移転してきた寺院の名称をとった。それ以前に同名の別寺があったともいう。

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薬研坂
(やげんざか)
【標識(港区設置)の説明】
中央がくぼみ両側の高い形が薬を砕く薬研に似ているために名づけられた。付近住民の名で
何左衛門坂とも呼んだ。

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新坂
(しんざか)
【標識(港区設置)の説明】
できた当時は新しい坂の意味だったが、開かれたのは古く元禄12年(1699)である。しんさかとも発音する。

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稲荷坂
(いなりざか)
【標識(港区設置)の説明】
坂下北側に円融院があり、その境内の稲荷への門があったための坂。坂上に江戸城中清掃役の町があり
掃除坂ともいう。

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三分坂
(さんぷんざか)
【標識(港区設置)の説明】
急坂のため、通る車賃が銀三分(さんぷん・百円余)増したためという。坂下の渡し賃一分に対していったとの説も。

坂上にはTBSの社屋があります。
写真の左手に見える塀は報土寺の築地塀(練塀)で、港区の文化財となっています(港区教育委員会設置の標識もあります)。報土寺には江戸時代の大関・雷電為右衛門の墓もあります。


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