目切坂(めきりざか)

所在地: 目黒区青葉台一丁目と上目黒一丁目の境界 ⇒ 地図 

@ 坂下から。左に標識が見える。

A 同じく坂下から。1999年撮影。左に標識が見える。

B 坂下から少し登った所から見上げる

C Bからさらに登った地点から見上げる

D 坂上部から見下ろす

E Dからさらに登った地点から見下ろす


G Fの標識の脇にある別の標識「目切坂と旧鎌倉街道」

H 坂上にある「目黒元富士跡」(右)「富士信仰と元富士」(左)の標識。
F 坂下にある標識(目黒区教育委員会設置)

【標 識】
説  明
 この付近にうすの目切りをする石工が住んでいたので目切坂とよばれるようになったといわれる。また、斜め切り通しなので目切坂とよばれるようになったともいわれる。
設置者:
 目黒区教育委員会
設置日 昭和五十八年三月


【この坂について】
 旧山手通り代官山交番前の交差点から、南に入り、緑の中を西へやや蛇行しながら下る坂道です。目黒区青葉台一丁目と同上目黒一丁目の境界にあり、上村坂と新道坂の中間に位置します。

 標識は、坂下に目黒区教育委員会設置による木製の角柱が立っています(写真F)。
 また、この標識のすぐ脇に、「めぐろ風景 目黒区みどりの散歩道 目切坂と旧鎌倉街道」と題された標識があり(写真G)、そこには、
 目の前の坂が目切坂。江戸時代、近くに石ウスの目切りをする腕の良い石工が住んでいたことから、、この名前がついたという。
 この道はかつての鎌倉街道でもある。源頼朝が鎌倉に幕府を開いた後、変事の際に援軍が鎌倉に急行できるようにとつくられた道の一つ。「いざ鎌倉へ」と、鎧かぶとの武者たちが馬を飛ばしたのは800年も昔の話だ。」

と書いてあります。

 坂上には、目黒区教育委員会設置の「目黒元富士跡」及び「富士信仰と元富士」の標識があります(写真H)。写真Hの後方にみえるマンションのあったところに、江戸時代に築かれた小型の富士(「元富士」)がありました。「目黒元富士跡」の説明には、以下の通りかかれています。
 
目黒元富士跡 上目黒1−8
 江戸時代に、富士山を対象とした民間信仰が広まり、人々が集まって講をつくった。それを富士講という。
 富士講の人々は富士山に登るほかに、身近なところに小型の富士を気づき、これに登って山頂の石祠を詠んだ。
 このマンションの敷地にあった富士は文化3年(1812)上目黒の富士講の人々が築いたもので、高さは12mもあったという。文政2年(1819)中目黒2丁目に新しく富士が築かれ、それを新富士と呼ぶようになってから、ここの富士は元富士といわれるようになった。
 元富士は、明治11年(1878)に取りこわされ、石祠の講の碑は昭和18年(1943)上目黒氷川神社に移された
    昭和58年3月 東京都目黒区教育委員会
 
なお、標識の説明にある「新富士」は別所坂の坂上にありました。


【写真撮影日】 1999年(A)、2002年7月12日(CEH)、2003年6月14日(@BDFG)

【この坂の本サイト掲載日】 2002年8月14日
【このページの作成日】    2004年10月25日