HOME文京区の坂(8)小石川方面

文京区の坂(8) 〜 小石川方面 【8坂】

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善光寺坂
(ぜんこうじざか)
【標識(文京区教育委員会)の説明】
坂の途中に善光寺があるので、寺の名をとって坂名とした。善光寺は慶長7年(1602)の創建と伝えられ、伝通院(徳川将軍家の菩提寺)の塔頭で、縁受院と称した。明治17年(1884)に善光寺と改称し、信州の善光寺の分院と なった。したがって明治時代の新しい坂名である。坂上の歩道のまん中に椋の老木がある。古来、この木には、坂の北側にある稲荷に祀られている、澤蔵司の魂が宿るといわれている。なお、坂上の慈眼院の境内には礫川や小石川の地名に因む松尾芭蕉翁の句碑が建立されている。
  “一しぐれ 礫や降りて 小石川” はせを(芭蕉)
 また、この界隈には幸田露伴(1867〜1947)・徳田秋声(1871〜1943)や島木赤彦(1876〜1926)、古泉千樫(1886〜1927)ら文人、歌人が住み活躍した。


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六角坂
(ろっかくざか)
【標識(文京区教育委員会)の説明】
「六角坂は上餌差町より伝通院の裏門の前に出る坂なり、古くより高家六角氏の屋敷の前なる坂故にかくいえり」(『改撰江戸志』)とある。
 『江戸切絵図』(万延2年(1861)の尾張屋清七板)をみると、この坂が直角に曲がっているあたりに、六角越前守の屋敷があったことがわかる。
 餌差町は、慶長年間(1596〜1615)、鷹狩りの鷹の餌になる小鳥を刺し捕らえることを司る「御餌差衆」の屋敷がおかれた所である。近くに歌人・島木赤彦が下宿し、『アララギ』の編集にあたった「いろは館」があった。


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堀坂[宮内坂・源三坂]
(ほりざか[くないざか・げんぞうざか])
【標識(文京区教育委員会)の説明】
「堀坂は中富坂町の西より東の方、即ち餌差町に下る坂をいふ。もと其の北側に堀内蔵助(2300石)の邸ありしに因れり。今坂の中途に"ほりさか"と仮字にてしるしたる石標あり。此坂は従来宮内坂又は源三坂と唱へたるものにて。堀坂といへるは其後の称なりといふ」(『新撰東京名所図会』)
 この場所の北側に旗本堀家の分家利直(後に利尚、通称宮内)の屋敷があったことから、この坂は別名「宮内坂」と名づけられた。また、当地の名主鎌田源三の名から「源三坂」ともいわれた。「堀坂」という名称は、文政(1818〜30)の頃、堀家が坂の修理をして「ほりさか」と刻んだ石標を建てたことからいわれるようになった。
 坂下に“こんにゃくえんま”の伝説で名高い「源覚寺」がある。


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富坂
(とみさか)
【標識の説明】
「とび坂は小石川水戸宰相光圀卿の御屋敷のうしろ、えさし待ちより春日殿町へ下る坂、元は此処に鳶多くして女童の手に持たる肴をも舞下りてとる故とび坂と云」と「紫一本」にある。鳶が多くいたので、鳶坂、転じて富坂となった。
 また、春日町交差点の他に(二ヶ谷)をはさんで、東西に坂がまたがって飛んでいるため
飛坂ともいわれた。そして、伝通院の方を西富坂、本郷の方を東富坂ともいう。都内に多くある坂名の一つである。
 この近く礫川小学校裏にあった「いろは館」に島木赤彦が下宿し、“アララギ”の編集にあたっていた。
  「富坂の冬木の上の星月夜
     いたくふけたりわれのかへりは」
      島木赤彦(本名 久保田俊彦 1876〜1926)

東富坂の坂下から見た(西)富坂
三百坂
[三貊坂]

(さんびゃくざか、[さんみゃくざか])
【標識の説明】
 『江戸志』によると、松平播磨守の屋敷から少し離れた所にある坂である。松平家では、新しく召抱えた「徒の者」を屋敷のしきたりで、早く、しかも正確に、役立つ者かどうかをためすのにこの坂を利用したという。
 主君が登城のとき、玄関で目見えさせ、後衣服を改め、この坂で供の列に加わらせた。もし坂を過ぎるまでに追いつけなかったときは、遅刻の罰金として三百文を出させた。このことから、家人たちは「三貊坂」を「三百坂」と唱え、余人もこの坂名を通称とするようになった。
吹上坂
(ふきあげざか)
【標識の説明】
このあたりをかって吹上村といった。この土地から名づけられたと思われる。
 吹上坂は松平播磨守の屋敷の坂をいへり(改選江戸志)。なお、別名「
禿坂」の禿は河童に通じ、都内六ヶ所にあるが、いずれもかっては近くに古池や川などがあって寂しい所とされている地域の坂名である。
 この坂も善仁寺前から宗慶寺・極楽水のそばへくだり、坂下は「播磨たんぼ」といわれた水田であり、しかも小石川が流れていた。
 この水田や川は、鷺の群がるよき場所であり、大正時代でもそのおもかげを止めていた。
   雑然と鷺は群れつつおのがじし
    あなやるせなき姿なりけり  古泉千樫(1886〜1927)

緩やかですが、長い坂です。坂下では播磨坂と接しています。
播磨坂
(はりまざか)
【標識の説明】
この道路は、終戦後の区画整理によって造られたもので、一般にいわれる環三道路(環状3号線)である。
 かつて、このあたりは松平播磨守の広大な屋敷のあった所である。坂下の底地一帯を「播磨たんぼ」といい伝えており、この坂道もこの土地の人は播磨坂とよんでいる。
 昭和35年頃、「全区を花でうずめる運動」が進められ、この道路も道の両側と中央に樹令15年位の桜の木約130本が植えられた。そして地元の婦人会の努力によって、「環三のグリーンベルト」は立派に育てられている。
 昭和43年から桜まつりが行われ、文京区の新名所となった。


左側に見えるのが中央分離帯で、ここが公園になっており、人工の川も流れています。長い坂です。
団平坂
[丹平坂・袖引坂]

(だんぺいざか[たんぺいざか・そでひきざか])
【標識の説明】
「町内より東の方 松平播磨守御屋敷之下候坂にて、里俗団平坂と唱候 右は先年門前地之内に団平と申者 舂米商売致住居仕罷候節より唱始候由申伝 年代等相知不申候」と『御府内備考』にある。
 団平という米つきを商売とする人が住んでいたので、その名がついた。
 何かで名の知られた人だったのであろう。庶民の名の付いた坂は珍しい。
 この坂の一つ東側の道の途中(小石川5-11-7)に、薄幸の詩人石川啄木の終焉の地がある。北海道の放浪生活の後上京して、文京区内を移り変わって四か所目である。明治45年(1912)4月13日朝、26歳の若さで短い一生を終わった。
  椽先のまくら出させて
  ひさしぶりに、
  ゆふべの空にしたしめるかな 
        石川啄木(直筆ノート最後から2首目)