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文京区の坂(6) 〜 千駄木・本駒込方面 【12坂】

各坂道の位置はこちら → 地図

根津裏門坂
(ねづうらもんざか)
【標識の説明】
 根津神社の裏門前を、根津の谷から本郷通りに上る坂道である。
 根津神社(根津権現)の現在の社殿は、宝永3年(1706)五代将軍綱吉によって、世継ぎの綱豊(六代家宣)の産土神として創建された。形式は権現造、規模も大きく華麗で、国の重要文化財である。
 坂上の日本医科大学の西横を曲がった同大学同窓会館の地に、夏目漱石の住んだ家(“猫の家”があった。『我輩は猫である』を書き、一躍文壇に出た記念すべき所である。(家は現在「明治村」に移築)


左側が根津神社の裏手。右側に見える建物は日本医科大学付属病院です。
解剖坂
(かいぼうざか)
【標識なし】

日本医科大学と同大学図書館の間にある坂です。名前の由来が想像されますが、さすがに、文京区教育委員会も標識にはできなかったのでしょう。


汐見坂
(しおみざか)
藪下通りという道にある坂です。このあたりは森鴎外や夏目漱石が住んだ地域だそうです。写真左の茂みの石垣の上に、下のように「汐見坂」と彫られた石の標識があります。

団子坂
(だんござか)
【標識の説明】
潮見坂、千駄木坂、七面坂の別名がある。
「千駄木坂は千駄木御林跡の側、千駄木町にあり、里俗団子坂と唱ふ云々」(御府内備考)
 「団子坂」の由来は、坂近く団子屋があったともいい、悪路のため転ぶと団子のようになるからともいわれている。また「御府内備考」に七面堂が坂下にあるとの記事があり、ここから「七面坂」の名が生まれた。「潮見坂」は坂上から東京湾の入江が望見できたためと伝えられている。
 幕末から明治末にかけて菊人形の小屋が並び、明治40年頃が最盛期であった。また、この坂上には森鴎外、夏目漱石、高村光太郎が居住していた。


江戸川乱歩作の明智小五郎が最初に登場した小説「D坂の殺人事件」のD坂はこの団子坂です。
アトリエ坂
【標識なし】

須藤公園と講談社社宅の間にある坂道です。
大給坂
(おぎゅうざか)
【標識の説明】
 かつて、坂上に大給豊後守の屋敷があったことから大給坂と名づけられた。
 大給氏は、戦国時代に三河国(いまの愛知県)賀茂郡大給を本拠とした豪族で、後に徳川家康に仕え、明和元年(1764)、三河西尾に移封された一族である。
 現在残っている大銀杏は、大給屋敷の中にあったものである。この辺りの高台を、千駄木山といい、近くに住んだ夏目漱石は、次のようによんでいる。
 “初冬や 竹きる山の なたの音。
               (漱石1867〜1916)
狸坂
(たぬきざか)
【標識の説明】
このあたりは、旧千駄木林町で、昔は千駄木山といって雑木林が多く坂上の一帯は、俗に「狸山」といわれていた。その狸山に上る坂なので狸坂と名づけられた。
 狸山の坂下は根津の谷で、昔は谷戸川(藍染川・現在暗渠)が流れて田んぼが開け、日暮里の台地と向かいあっている。この日暮里に諏方神社があり、8月27日の祭礼が終わっても、どこからともなく「里ばやし」が毎夜聞こえてきた。
 土地の人たちは、これを千駄木山の“天狗ばやし”“馬鹿ばやし”といって、狸山にすむ狸のしわざといい伝えてきた。民話にちなむおもしろい坂名である。
きつね坂 【標識なし】

狸坂の北に位置する坂です。このあたりでは、不忍通りから「千駄木山」に上る坂が、南から「大給坂」「狸坂」「きつね坂」「むじな坂」「動坂」と並んでいます。狸、きつね、むじなと並ぶのは面白いですね。
むじな坂 【標識なし】
動坂
[堂坂]

(どうざか)
【標識の説明】
 この坂の由来については下記のとおりである。
『千駄木に動坂の号あるは不動坂の略語にて、草堂のありし用地なり』(江戸名所図会)
 元和年間(1615〜1624)万行上人が伊勢の国赤目山で不動明王像を授けられ、衆生済度のため諸国を廻り、駒込村のこの地に庵を設けた。その後三代将軍徳川家光いより現在の本駒込1丁目に写された。(現南谷寺)この本尊は江戸時代から五色不動(赤・白・黒・青・黄)として有名である。
 その路には日限地蔵堂がたてられ信仰をうけていたが、現在地蔵は徳源院に移されている。明治26年お堂の修理中地価より土器・石器が発見され、昭和49年には駒込病院敷地からも多数出土している。
 『動坂は田畑村へ通ずる往来にあり、坂の側に石の不動像在り、是れ目赤不動の旧地なり、よりて不動坂と称すべきを上略せりなりと言う』(御府内備考)
稲荷坂
(いなりざか)
【標識の説明】
 稲荷信仰は農業神であるウガノミタマノカミに対する信仰で「稲なり」の転訛といわれる。狐は古来、田の神の使いと考えられたので狐尊信の風が稲なり信仰と結合して、特に江戸時代になると盛んになった。
 これが、農村のみにとどまらず都市にも普及して商業繁栄を招来する神、そして家屋敷の守り神(地守神)となって武家屋敷内をも含めて小規模な稲荷社を祀る風習を生むようになる。これを「屋敷稲荷」といった。
 こうした風習から来る生活感情と付近の稲荷社とのかかわりの中で撰らばれた坂名として特色があるが、ここの場合は坂上にある江戸初期から続く駒込開拓名主・高木家の「宗十郎稲荷」に起因する。
神明坂
(しんめいざか)
【標識の説明】
このあたりは、旧町名が駒込神明町といった。駒込の総鎮守の天祖神社(旧称神明社)にあやかったものである。
 現在この坂道は通称不忍通りにあるが、道路の開設は新しく、大正十一年である。町内の坂ということで神明坂と名づけられた。大正の坂、東京の坂である。