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文京区の坂(2) 〜 湯島方面(その2) 【8坂】

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三組坂
(みくみざか)
【標識の説明】
元和2年(1616年)徳川家康の死去にもとない、家康お附きの中間、小人、駕籠方「三組の者」に、当時駿河町といわれていたこの地一帯を与えた。その御、元禄9年(1696年)三組の御家人拝領の地である由来を大切にして町名を三組町と改めた。この町内の坂であるところから「三組坂」と名づけられた。元禄以来、呼びなれた三組町は昭和40年4月以降今の湯島三丁目となる。
ガイ坂
【標識なし】

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実盛坂
(さねもりざか)
【標識の説明】
「江戸志」によれば「・・・湯島より池の端の辺をすべて長井庄といへり、むかし斎藤別当実盛の居住の地なり・・・」とある。また、この坂下の南側に、実盛塚や首洗いの井戸があったという伝説めいた話が「江戸砂子」や「改撰江戸志」にのっている。この実盛のいわれから、坂の名がついた。
 実盛とは長井斎藤別当実盛のことで、武蔵国に長井庄(現埼玉県大里郡妻沼町)を構え、平家方に味方した。寿永2年(1183年)、源氏の木曽義仲と加賀の国篠原(現・石川県加賀市)の合戦で勇ましく戦い、手塚太郎光盛に討たれた。
 斎藤別当実盛は出陣に際して、敵に首をとられても見苦しくないようにと、白髪を黒く染めていたという。この話は「平家物語」や「源平盛衰記」に詳しく記されている。
 湯島の「実盛塚」や「首洗いの井戸」の伝説は、実盛の心意気にうたれた土地の人々が、実盛を偲び、伝承として伝えていったものと思われる。
中坂[仲坂]
(なかざか)
【標識の説明】
「御府内備考」に、「中坂は妻恋坂と天神石坂との間なれば呼び名とすといふ」とある。
 江戸時代には、二つの坂の中間に新しい坂ができると中坂と名づけた、したがって中坂は二つの坂より後にできた新しい坂ということになる。
 また、「新撰東京名所図会」には、「中坂は、天神町1町目4番地と54番地の間にあり、下谷区へ下る急坂なり、中腹に車止めあり」とあり、車の通行が禁止され歩行者専用であった。
 このあたりは、江戸時代から、湯島天神(神社)の門前町として発達した盛り場で、かつては置屋・待合などが多かった。
  まゐり来てとみにあかるき世なりけり
   町屋の人のその人の顔かお   (釈 迢空)
天神石坂[天神男坂]
(てんじんいしざか、てんじんおとこざか)
【標識の説明
 三十八段の石段坂である。別名は天神男坂。すぐわきにある、ゆるやかな坂・女坂に対して男坂という。
 江戸時代の書物‘御府内備考‘によると、湯島神社(天神)参拝のための坂であったが、その後、本郷から上野広小路に抜ける通り道になったという。


この坂を上ると湯島天神です。
天神女坂
(てんじんおんなざか)
写真では暗くて見えにくいですが、標識は坂の最下段のところに木の立て板で、「女坂」とだけ書かれています(写真下左)。また、同じく坂下には、原田悠里「おんな坂」歌唱記念(北島三郎書)の「おんな坂」の碑が立てられています(写真下右。平成十四年七月二十五日建之)

夫婦坂
(めおとざか)
【標識なし】

新坂」ともいうようです。湯島天神から北へ切通坂に下る石段の坂道です。坂の中ほどに登龍門があります。
切通坂
(きりどおしざか)
【標識の説明】
「御府内備考」には「切通は天神社と根生院との間の坂なり、是後年往来を聞きし所なればいふなるべし。本郷三、四丁目の間より池の端、仲町へ達する便道なり、」とある。湯島の台地から、御徒町方面への交通の便を考え、新しく切り開いてできた坂なので、その名がある。
 初めは急な石ころ道であったが、明治37年(1904)上野広小路と本郷三丁目間に、電車が開通してゆるやかになった。
 映画の主題歌「湯島の白梅」“青い瓦斯灯境内を 出れば本郷切通し”で、坂の名は全国的に知られるようになった。
 また、かつて本郷三丁目交差点近くの「喜之床」(本郷2-38-9・新井理髪店)の二階に間借りしていた石川啄木が、朝日新聞社の夜勤の帰り、通った道である。

  二晩おきに夜の一時頃に切り通しの坂を上りしも 
    勤めなれかな   石川啄木


道の反対側にあるのが湯島天神です。