HOME > 文京区の坂(13)大塚・千石方面

文京区の坂(13) 〜 大塚・千石方面 【9坂】

各坂道の位置はこちら → 地図

小篠坂[小笹坂]
(こざささか)
【標識(東京都文京区教育委員会)の説明】
豊島区と境を接する坂である。この坂道は、江戸のころ、護国寺の北西に隣りあってあった。‘幕府の御鷹部屋御用屋敷’から、坂下の本浄寺(豊島区雑司が谷)に下る坂として新しく開かれた。往時は笹が生い繁っていたことから、この名がついたものであろう。
 坂下一帯は、文京の区域を含めて、住居表示改正まで、雑司が谷町とよばれていた。近くの目白台に長く住んだ『窪田空穂』は、次のようによんでいる。
  雑司が谷 繁き木立に降る雨の
   降りつのりきて 音の重しも

→ 小篠坂のページ


希望の坂
(きぼうのさか)
【標識の説明】
この坂の名は青柳小学校のみなさんからの募集により、昭和53年(1978)につけられました。青柳小学校は大正3年(1914)旧西青柳町に開校し、町名を校名としました。
 小学校は昭和35年(1960)高速道路建設のため、現在地に移転されました。坂上には新校舎記念碑が建ち、坂道は子どもたちが楽しく学べる通学路であり、希望にみちた子ども達の将来を願って、坂の名を「希望の坂」としました。平成6年(1994)開校80周年記念に「希望の坂」の歌の発表がありました。
 ‘希望の坂の上から元気な声が聞こえる 青い空に 白い校舎 明るく歌う声 緑に囲まれた
 青柳小学校 この坂道は ぼくの宝だ いつまでも忘れない’

左の写真のとおり、この坂は青柳小学校(及び青柳幼稚園)の入口になっています。上にある小篠坂のそばにあります。
富士見坂
(ふじみざか)
【標識(文京区教育委員会)の説明】
坂上からよく富士山が見えたので、この名がある。高台から富士山が眺められたのは、江戸時代の町の特色で、区内には同名の坂が他に二ヶ所ある。坂上の三角点は、標高28.9mで区内の幹線道路では最高地点となっている。むかしは、せまくて急な坂道であった。大正13年(1924)10月に、旧大塚仲町(現・大塚三丁目交差点)から護国寺前まで電車が開通した時、整備されて坂はゆるやかになり、道幅も広くなった。また、この坂は、多くの文人に愛され、歌や随筆にとりあげられている。
 とりかごをてにとりさげてもわがとりかひにゆく
   おほつかなかまち       会津八一(1881-1956)
 この道を行きつつ見やる谷越えて
   蒼くもけぶる護国寺の屋根  窪田空穂(1877-1967)

→ 富士見坂のページ

開運坂
(かいうんざか)
【標識の説明】
 坂名の由来については、よくわからないが、運を開く吉兆を意味するめでたい名をつけたものであろう。
 このあたりは、富士見坂(大塚3丁目の交差点から護国寺前)の下であるところから、旧町名を大塚坂下町といった。それでこの坂の下の道を坂下通りとも呼んでいる。
 坂の上の南側には、五代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の願いで建てられた護国寺がある。護国寺の東側には、明治6年(1873)に開かれた豊島岡墓地(皇族墓地)がある。
 豊島岡墓地の東側は大塚先儒墓所である。江戸時代の高名な儒学者である、木下順庵、室鳩巣、尾藤二州や古賀精里などの墓がある。
 ”護国寺に住みている鳩 屋根はなれ
   高く飛びおり 春日の空に”
               窪田空穂(1877-1967)
白鷺坂
(しらさぎざか)
【標識の説明】
 このあたり一帯は、かつて伊達宇和島藩主の下屋敷であった。近くの区立大塚小学校地は、池を中心とした伊達屋敷の庭園部に相当すると伝えられる。明治時代を迎えて荒廃するが、「古木老樹がうっそうとしげり白鷺の集巣地となって日夜その鳴声になやまされたものである」とは土地の古老の話である。
 この白鷺にみせられたアララギの歌人古泉千樫は、ここに毎日通いつめて白鷺を題材とした短歌をつくったといわれる。
 明治末期の東京市区改正に伴う道路整備によって不忍通りの前身が伊達屋敷内を貫通したため往時をしのぶものもなく、そこにできたこの長い坂道にも坂名のないままであったが誰れいうとなく白鷺にちなんだ坂名が愛称となった。
 大正から昭和にかけての人によってつけられた坂名といえる。
 鷺の群 かずかぎりなき鷺の群
  そうぜんとして寂しきものを 古泉千樫(1886-1927)

猫又坂の対面にある坂道です。坂は長く大塚三丁目の交差点まで続きます。
猫又坂
[猫貍坂、 猫股坂]

(ねこまたざか)
【標識の説明】
 不忍通りが千川谷に下る(氷川下交差点)長く広い坂である。現在の通りは大正11年(1922)頃開通したが、昔の坂は、東側の崖のふちを通り、千川にかかる猫又橋につながっていた。この今はない猫又橋にちなむ坂名である。
 また、『続江戸砂子』には次のような話がのっている。
 むかし、この辺に狸がいて、夜な夜な赤手拭をかぶって踊るという話があった。ある時、若い僧が、食事に招かれての帰り、夕暮れどき、すすきの茂る中を、白い獣が追ってくるので、すわっ、狸か、とあわてて逃げて千川にはまった。そこから、狸橋、猫貍橋、猫又橋と呼ばれるようになった。猫貍とは妖怪の一種である。


千石3丁目交差点(写真手前)をはさんで、白鷺坂と対面にある坂です。標識の隣に、猫又橋の親柱の袖石が置かれてあります。
氷川坂
[簸川坂]

(ひかわざか)
【標識の説明】
氷川神社に接した坂ということでこの名がつけられた。氷川神社の現在の呼称は簸川神社である。坂下一帯は明治末頃まで「氷川たんぼ」といわれ、千川(小石川)が流れていた。洪水が多く、昭和9年(1934)暗渠が完成し、「千川通り」となった。神社石段下には千川改修記念碑がある。

左の写真にも見えますが、坂上に簸川神社があります。

簸川神社社殿
網干坂
(あみほしざか)
【標識の説明】
 白山台地から千川の流れる谷に下る坂道である。小石川台地へ上る「湯立坂」に向かいあっている。
 むかし、坂下の谷は入江で舟の出入りがあり、漁師がいて網を干したのであろう。明治の末頃までは千川沿いの一帯は「氷川たんぼ」といわれた水田地帯であった。
 その後、住宅や工場がふえ、大雨のたびに洪水となり、昭和9年に千川は暗渠となった。なお、千川は古くは「小石川」といわれたが、いつの頃からか千川と呼ばれるようになった。


写真で右側は小石川植物園です。また坂下には簸川神社の入口があります。
湯立坂
(ゆたてざか)
【標識の説明】
「里人の説に往古はこの坂の下は大河の入江にて氷川の明神へは河を隔てて渡ることを得ず。故に此所の氏子ども此坂にて湯花を奉りしより坂の名となれり。」(江戸志)
 武蔵風土記には、このあたりのことを簸川原とあり、アユ、ウナギそしてセリなどのとれる所としている。事実小石河(千川とも後年云う)が流れていた。
  我方を 思ひゆかめて 小石河
   いづこを瀬とか こひ渡るらむ
    道興准后「廻国雑記」(文明18年(1484)6月より3月までの北陸、関東、奥州諸国の遊歴見記)より。

坂の右側は筑波大学学校教育部、教育の森公園等です。写真のとおり、坂の中ほどは木々に覆われて薄暗くなっています。坂上はカイザースラウテルン広場。営団地下鉄茗荷谷駅のそばです。